KARAを振り返っていたらあまりにも収集がつかないので
こちらを先に公開します😅
K-POPの歴史
というには大袈裟だし自分のようなニワカが語るのも恐縮ですが
CSで「アーカイブK」という番組を観たのでちょっと書いてみます
「アーカイブK」 韓国の地上波放送局SBSの開局30周年の特別企画。BTS、BLACKPINK、TWICEを始め、1980年代から現在にわたり数多くのK-POPアイドルがいかにして世界的に成長できたのか、その歴史と過程を約180名のアーティストと共に記録する特別番組。
全10回のうちの9回と10回だけ偶然視聴できました。
近年のK-POPの歴史はこの2回に特集されているようです。
YouTubeにはほとんど動画がないので静止画で…
K-POPが初めて海外進出した場所は?
中国と台湾
中国
1997年 MBCドラマ「星に願いを」が中国で大ヒット
Ahn Jae-wook - Forever, 안재욱 - Forever, MBC Top Music 19971227
2000年 その主役アン・ジェウクの曲「Forever」が中国でも大ヒット
※)90年代の中国四天王(俳優)が歌を歌うのは自然なことだったので
韓国の俳優アン・ジェウクが歌うForeverも受け入れられた
台湾
1997年 CLONの「都市脱出」を台湾のYukiがリメイクして大ヒット
(韓国の音盤制作者が華僑だったので、狙ってリメイク盤を出した)
↓ これはオリジナル
Clon - City escape MBC Top Music 19970712
当時の韓国は表現の規制が厳しかったので台湾ではなんでもやった
90年代は文化音楽メディアなどで台湾が中華圏をリードしていた
中華圏に行くなら台湾へ行け
というわけで、台湾での人気を足がかりに中国へ進出、成功したCLON
しかし海外進出を狙う他のグループには決定的な障害があった
それは
兵役
(当時は兵役を終えていないとビザがおりなかった)
でも国家間の行事なら海外活動も可能
そこから中国進出のチャンスを掴んだのが
NRG
NRG(New Radiancy Group)は、韓国の5人組男性アイドルグループ、バンド。
新たに輝くグループを意味する。韓国アイドル界第1世代。
엔알지 (NRG) - 메신져 Messenger (인기가요 37회 1998년 10월 18일)
NRGが中国で最初に成功したグループとなった
追加情報:Wikiより(いろいろなことがありますねぇ)
1999年8月にリーダーのイ・ソンジンとチョン・ミョンフンが事務所との確執が原因で脱退。その後発売した正規3集「NRG 003」はノ・ユミン、ムン・ソンフン、キム・ファンソンの3名で活動をした。
2000年6月15日、海外での活動から帰国し風邪の症状を訴えて入院していたキム・ファンソンの病状が急転し死去(享年19歳)。2001年に発売された正規4集でイ・ソンジンとチョン・ミョンフンがグループに復帰。
2003年2月7日に正規5集<Hit Song>を発表し、デビュー6年ぶりに歌謡プログラムで1位を受賞をしたが、2005年末にムン・ソンフンが脱退。以降、グループとしては完全活動休止状態に入った。
CLONから始まったコリアンミュージック旋風は
夏に入って本格的に火がつき始めDIVAや女性歌手にも引き継がれた
Fin.K.L、S.E.S.、Baby V.O.Xなどヨジャグルも大人気に
1998年に結成した韓国の4人組女性アイドルグループ。
KARAで有名なDSPメディア(旧 テソン音響)所属。
SMエンターテインメント所属のS.E.S.らと共に、韓国アイドルの第1世代として活躍した。
Fin.K.L - Eternal love, 핑클 - 영원한 사랑, Music Camp 19990529
追加情報:Wikiより
1998年に発売した1集『BLUE RAIN』の表題曲『Blue Rain』、後続曲の『ルビ(涙悲)』、『ネナムジャチングエゲ(私のボーイフレンド)』が連続ヒットし、2000年発売の3集『Now』で国民的アイドルグループとしての地位を確立した。1集では元気に、2集で可憐に、3集で大人にイメージチェンジし、活動コンセプトを変化させた。
2002年発売の4集『永遠』以降は、メンバー全員がDSPメディアを離れて各事務所へ移籍し、ソロ活動に専念した。
S.E.S.(エスイーエス)は、韓国の女性3人組アイドルグループ。
SMエンターテインメント所属。韓国アイドル第1世代。
1997年11月にデビューし、2002年末に専属契約満了となった解散した。
S.E.S - I'm your girl, MBC Top Music 19980110
1998年10月、バップから『めぐりあう世界』をリリースし日本デビュー。
S.E.S. めぐりあう世界 (Meguri Au Sekai)
全然知らなかった…MISIAの曲に似てるな?と思ったら同じ作曲家でした
日本語うまいのは日本語ネイティブな在日韓国人3世のメンバーがいるからか
Baby V.O.X(ベイビーボックス)
Baby V.O.Xは女性5人組のアイドルグループ。
V.O.XはVoice of Xpression (Expression)の略。
1期は1997年から2005年まで活動し、現在2期が活動休止状態。
Baby V.O.X - Killer, 베이비복스 - 킬러, Music Camp 19991009
追加情報:Wikiより
1期:1997年にアルバム「EQUALIZEHER」でデビューするもののヒットせず。キム・イジ、イ・ヒジン以外のメンバーの入れ替えを行いイ・ガイ、シム・ウンジン、カン・ミヨンが加わる。2集「Ya Ya Ya」の表題曲「Ya Ya Ya」が大ヒット。2集発表後、イ・ガイが年齢詐称のスキャンダルにより脱退し、代わりに当時15歳の最年少メンバー、ユン・ウネが加わる。これ以降メンバーは2004年の7集「Ride West」まで不動であった。7集発売後、2004年10月シム・ウンジンが脱退し、2005年ユン・ウネが脱退した後、2006年解散した。
初代Baby V.O.Xは、S.E.S, Fin.K.Lなどと同時代に活躍したが、中国、台湾、タイなど韓国国外においては圧倒的な人気があった。日本においては、ライブやイベントに参加しCDデビューもしているが、本格的な活動には至らなかった。
このグループも全然知らなかった…日本デビューもしてたんですね
そして中華圏の人気の頂点に立ったアイドルグループが
H.O.T.(エイチオーティー)
1996年にデビューした5人組アイドルグループ。SMエンターテインメント所属
2001年の解散まで韓国で圧倒的な人気を誇り、韓国アイドル界の歴史を変えたとも言われている。
第1世代アイドルのレジェンド H.O.T.
H.O.T - We are the future, HOT - 위 아더 퓨처, MBC Top Music 19971122
CLONの成功を見て台湾で活動開始、その後中国へ進出し大成功
SMが中国に初進出したのは2000年
(中国で「韓流」という新語が生まれたのもこの頃)
SMエンターテインメント代表:イ・スマン
追加情報:Wikiより
S.E.S.の所属事務所だったSMエンターテインメントの創業者兼オーナーであるイ・スマンは当初、同事務所所属の男性グループH.O.T.を日本でデビューさせるつもりだったが、当時の韓国では兵役未了の男性が海外を頻繁に行き来することは難しかったため断念し、代わりにS.E.S.が日本進出第一号になった。
S.E.S.の日本進出が失敗に終わったため、イ・スマンは日本ではヒットさせるまでに時間が掛かることを痛感し、その期間を逆算して次はもっと若い歌手を送り込もうと社運を賭けたプロジェクトを起こし、その結果BoAの日本進出成功につながった。また、S.E.S.は韓国で人気絶頂の時に日本での活動を優先したため、本国での人気低下を招いた面があるとされている。少女時代の日本デビューでは、SMはS.E.S.の失敗を教訓として、曲選びからデビューイベントの内容、時期まで慎重に吟味したという。このように、S.E.S.の日本進出が苦戦した経験を、SMは後輩達の日本進出成功に生かしていると言えるだろう。
当時の日本はアジアでは比較の対象がないほど近代化されていたが
自国アーティストへの愛が強く壁が高い市場だった
韓国で成功した曲をそのまま持ち込んでも日本市場では成功しないしかし日本市場の魅力は1度ファンになるとずっと応援してくれるところ
忠誠度が高いファンダムが多いことで有名最初の一歩は難しくても居場所を作りファンダムができたときに得られる収益
そして持続性 その観点から日本市場は魅力的だった
日本市場の障壁は言語を抜いては語れない
米国も同じですが 自国の市場が進んでいることを熟知していて
自国より劣る市場のアーティストを受け入れなくても産業的に成り立つ市場だ
特に外国語の歌が歓迎されないのは当然
※)2000年頃の洋楽のヒットを思えば言語だけの問題ではないと思うけど…
そんな高い壁を越えるため最初に解決すべきことは言語の壁です
日本市場に進出したすべての歌手は今もそうですが
日本語という壁を克服しなければなりません
イ・スマン:中学生になっていない女の子を必死に探した 兵役の問題のためでもある
BoA登場 日本市場の生き証人
一部YouTubeにあったのでリンクします。英語の得意な方は字幕をご覧ください
要約:
BoAだけ日本語のレッスンが課せられた
99年に日本で日本語と日本の文化やダンスのトレーニングを受けた
14歳のとき一人で飛行機に乗り日本に来た
当時の日本語教材はビジネス用ばかり
NHKアナウンサーの家庭に2ヶ月ホームステイした
国際電話も大変で母とは1年ほど文通をしたイ・スマン:BoAのデビューはアジアから世界への進出を図る第一歩になるでしょう
MC:日本では何が一番違った? 口パクではなくハンドマイクで歌った
ショーケースで音を外してトラウマになった当時の韓国はTV局が3局しかなかったが日本は地方局も多く、
レコード店にまで足を運ぶ広報活動が大変で不思議だった
しかし日本では期待されたほど売れず、最後のアルバムでは好きな音楽をやった
その1曲目が「Listen To My Heart」だった
レコーディングを終えて韓国にいたとき日本で大ヒットしてると電話が来た
渋谷109の前でゲリラコンサートをやったときは
※)2万人はいくらなんでも盛りすぎ😅
以後20年間 BoAが日本で立てた記録の数々
MC:記憶に残る日本のできごとは?
2003年に日本で初めてホールツアーのコンサートを開いたときチケットが瞬時に売り切れ、代々木競技場に急遽変更したので舞台セットが小さかった
(東方神起、BIG BANG、KARA、少女時代、2NE1 など)
と、いうところで長くなったのでこの先は次回に続く
To be continued...
最後に、K-POP好きな吉本の芸人さん?の動画
(めちゃくちゃ詳しいし、わかりやすいです)
K-POPの歴史を知ってみよう#1
これ見たら済むじゃんとか言わないように…笑
おまけ
初めて買った韓国のCDがこれ 2005年頃かな?
(買ってからM-floとのコラボが韓国のグループと知りました)
【 Clazziquai Project Feat. Verbal (M-Flo) 】 「Love Mode」
Wikiより
Clazziquai Project(クラジクワイ・プロジェクト)は、韓国のクラブ系アーティスト。
Clazziquaiとは、Classic+Jazz+Grooveをかけあわせた造語であり、さらにJamiroquaiへのリスペクトも兼ねた意味となっている。さらに、韓国語読みすると「クレジカイ」と似た発音になり、「Crazy Guy」とも掛けている。
知らなかった…
K-POPの歴史2に続く! (いつアップできるかは不明😅)